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S = k log W

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24日。終日風が強く、底冷えがする。
家にじっとしておれず、
中野古書「猫額洞」に伺う。

父が間際まで愛読していたジンメル
(ドイツの哲学者)に関連するものほか、
ノーマン・メイラーなど数冊を購入。


以下少し長いのですが
たまたま見つけた父の遺稿があったので
掲載させていただきます。
何のために書いたのかもよくわかりませんが、
自分の考えをまとめておきたかったのだと思います。

書き出しはいいのですが、やがて熱力学の数式と
社会学の融合になり。。。なんとなくいいたいことは。。
でも文系のワタクシには緻密な理解はできません。
本人が解説してくれないと。

注:執筆年月日不明
1927(昭和2)年医師の長男に生まれる。
旧制静岡高校理乙(理系ドイツ語医学部進学クラス)(現・静岡大学)卒業後、高校数学科教諭として奉職。
2007年2月15日帰宅途中不慮の事故にて永眠。
タイトルはジンメル「断想」(清水幾太郎訳・岩波文庫)
から、また冒頭「硝子戸の内側」はやはり夏目漱石
「硝子戸の中」を意識していると思われます。

* * *

「冬の日の断想」-S=k log Wとその周辺-

へうへうと木枯らしの吹く日曜日の午後である。

硝子戸の内側に雪割草が咲いている。

秋も終り、冬に入ると、嘗ての数学旅行での印象が又

はっきりと浮かび上がってくる。・・・

京都では楓が黄ばみ、清滝の流れは淙々と音を立て、

水底には紅葉が沈み、その上の青空が鮮烈に目にしみた。

将に自然そのもの「本分」Wesenの躍動に外ならない。

ところがバスに山陽道に入ると道は渋滞し、海は黒く濁り、

工場の悪臭はバスの中まで入り込みオニヒトデの死骸が目についた。

自然の本分は現象の背後に後退してしまっている。

嘗てレイチェル・カーソンは「沈黙の春(silent spring)」(新潮文庫)の中で、

地球を覆う合成薬剤をクラカトア火山の噴火灰に喩えているが、

公害は人間の福祉という目的と営利という手段の価値が転倒する為に起こる。

今世相を見ると母が子をロッカーに捨てたり、学問を本分とすべき大学が

いつの間にか営利に専念したりして「目的」と「手段」とを転倒する現象が

多く見られるがこれは精神病理学的に云って「頽廃」decadance(デカダンス)

と呼ばれる現象に外ならない。


ギボンの「ローマ帝国衰亡史」の中に多くその例を見る。

(例えばローマ末期の貴族が快楽の為食べては吐き食べては吐いたという)

これは将に亡国の徴でなくて何であろうか。

うたた「国破れて山河あり」の感が深い。生物に於いても癌細胞は

一種の表皮細胞が勝手に自己増殖を始めたものであって、全体の中における

自己本来の目的(合終局性)を忘れ、自分だけの目的(相同終局性)のみ

追求し始める現象を「変性」Degeneration(デゲネラチオン)と言うが、

頽廃は心理的変性現象に外ならない。

即ち「合終局性」とは生物が本来持つべき目的であり(あらゆる存在について

言えることであるが)「相同終局性」とは組織又は器官のもつ目的である。

(例えば胃は食物を消化する為に存在するetc.)

物質に於いては例えば水の分子は水素原子2個と酸素原子1個により成るが、

それは夫々の成分原子の性質とは全く違った水独自の性質を持つものである。

即ち価値の中には高い価値と低い価値があり(価値の階層(ヒエラルキー))、

その葛藤を通して前者が勝てばその「本分」が発現され

(現成公安:げんじょうこうあん)、後者が勝てば頽廃となるのである。


我々は図書館に於いて読書という合終局性を忘れ、談笑という相同終局性に

ふけってはいないか、クラブ活動に於いては人格の練磨という合終局性を忘れ、

勝敗という相同終局性にとらわれてはいないだろうか。

吉野弘の詩に次の様なものがあった。

「burst 花ひらく」・・・「事務は少しの誤りも停滞もなく(中略)ひそやかに進行し続けた

(中略)永年勤続表彰式の席上(中略)雇主の長々しい讃辞を受けていた

従業員の中の一人が蒼白な顔で突然叫んだ 

「-諸君!魂のはなしをしましょう魂のはなしを!・・・

なんという長い間 ぼくらは魂のはなしをしなかったんだろう!・・・

同輩たちの困惑の足下にどっとばかりに彼は倒れた。冷たい汗を吹いて・・・

発狂・・・花ひらく・・・又しても同じ夢」

これは将に合終局性に喪失であるのだ。

この自己疎外の傷ましさ・・・。

又夏目漱石は戦前早くも

「三四郎」に於いて広田先生に「日本は亡びるね」という予言をさせ、

「日露戦争に勝って一等国だ云って威張っても内実が空疎では駄目であって、

真実に目を蔽った「ひいきのひき倒し」は日本の為にとらぬ所である」と云っている。

この「富国強兵」と「道義に基づく真の文化」という国家におけるこの2つの価値の転倒が

遂に敗戦という現実に導いたのであるが、今果たして日本人にこのことが

十全に自覚されているのであろうか。

ドストエフスキーは「悪霊」のスタヴローギンにおいて

「法に触れねば何をしてもよい」という

「エゴイズム」という時代の病根を鋭くえぐったが、それはフィヒテが

ナポレオンによる敗戦のさなかで行った講話「ドイツ国民に告ぐ」で

警告した病でもあったのである。

自分の利益になれば他人はどうでもよいという利益社会

(Geselschaft:ゲゼルシャフト)の様相!

嘗て日本はある時期「友の憂いに我は泣き我が喜びに友は舞う」

共同社会(Gemeinschaft:ゲマインシャフト)の時代もあったのだ。


今の日本を蔽う公害、頽廃、拝金主義、偽美、自己疎外、価値喪失等は

「風見鶏」Wetterhahn:ヴェッターハーンの見たせまり来る頽廃の諸形式に外ならない。

そして現れる状態は色々であるが「秩序の破壊」という面において共通性をもつのである。



今、水を入れたコップの中にインクを入れるとインクは

除々に拡散して薄青い液ができるが、

これを再び初めの状態に戻そうとしてもそれは不可能である。

このような非可逆的過程を表わすものが熱力学の第二法則であるが、

これについてクラウジウスは19世紀後半熱量の変化量dQと絶対温度Tとの

比の積分 S dQ/Tを「エントロピー」S(ギリシャ語で変化の意)を含む、

どのような過程に於いてもSは常に増大することが云える(エントロピー増大の法則)。

この巨視的macroscopic:マクロスコピックな法則は

原子論に基づく統計力学を用いてマックスウェルボルツマンにより

微視的microscopic:ミクロスコピックなる法則での説明に成功した

(ボルツマンの「H(ハー)定理」)。この定理はエントロピーSと物体のとる状態の確率

(Wahrschenlichkeit:ワールシャインリッヒカイト)Wとの間の関係


S = k log W(kはボルツマン定数)


に到達する。

(この式はウィーンにあるボルツマンの墓に刻まれている

プランクがこれを表現し、アインシュタインが「ボルツマンの定理」と呼んだ。

即ち物体の状態は、この状態をとる確率Wが大きくなる方向に進行し、

これが最大となる時点で平衡となる。

(これによれば、いつの日か、この宇宙は熱的死

(Warmetotヴェルメトート)を遂げる外ないであろう)。

社会現象に於ける上述の諸現象は、

このエントロピー増大現象の一側面であると思はれる。

この分子的混沌(カオス)の偶然から出るこの必然性から逃れる可能性を、

マックスウェルは「熱理論」に於いて「マックスウェルの魔物」Maxwell's demonに求めた。

即ちもし非常に小さな魔物がコップの内部を薄い板で二分し、

それに無数の小窓をあけて、熱運動するインクの分子と水の分子とを

そこで選別すると、再びインクと水が混ざらない最初の状態になるはずだ

という思考実験(Gedankenexperiment)を行ったのである。

この魔はH.G.ウエルズのタイムマシン(時航機)を実現せしめ

永久機関を動かし、炎の上の水を凍らせる「ジーンズの奇跡」を見せる。

この魔は果たして存在するのであろうか?

答としては物理学の領域では否定的であるが、生物学の領域では

(依然として深い謎に包まれてはいるが)時空を限定されてはいるものの、

減少可能である。(エントロピーの法則)

そして人間は反エントロピーを生み(ネガトロピー)を生み、混沌(カオス)から

秩序(コスモス)を創る。ポールディングは価値としては

将に負のエントロピーそのものに外ならないと云っている。

そして魔が分子を選別してエントロピーを減少させるには

窓のところに来た分子の種類に関する情報が必要である。

即ち情報は反エントロピーに相当する。

それ故にこそ真に学ぶ事はそれ自体として価値そのものなのである。

そして増え続ける情報を処理するコンピューターは負のエントロピーを生むが、

最終的に人間精神の構成的思考と行為による外はない。

ゲーテの「ファウスト」が大宇宙(macro cosmos:マクロコスモス)を自己という

小宇宙(micro cosmos:ミクロコスモス)を以て味わい尽くさんとして不断の努力の末

到達したのは寄せては返す波と闘いつつ海を埋め立て、一つの理想国(エルドラドー)を

建設せんとする事業の世界であった。


そしてトーマス・マンもやはりファウストをテーマに「ファウスト博士」を書いたが

彼もやはりヘルダーリンの夢見た緑なす自然と地球的(global)な人類の共同体

(Gemeinschaft:ゲマインシャフト)との調和を夢見、シビルミニマムの確立とともに

高い精神性を求める。


漱石は「三四郎」の中で広田先生をして「東京は熊本より広い。日本は東京より広い。

世界は日本より広い。」と云わせしめている。


カール・ヤスペルスは「時代の闇はいかに深くとも実在は常に目覚めて居なくてはならぬ。

その闇を深く凝視せよ」と云い、又スイス・レマン湖畔のジュネーヴ大学の入口にたたずむ

宗教改革者カルヴィン・ツウィングリの像にはラテン語で「闇の彼方に光あり」と彫られているが、

この「内面への道」こそ、未来の光へ導く一本の細いアリアドネの赤い糸なのである。

道元も「花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌に生う」と云ったが、草は刈らねば生えてくる。

公害問題の原点は実に我々の意識に起源をもつ。

小説家ゲオルギュは敗戦国ドイツの「25時」を書いたが、「たとえ明日世界の終りが来るとしても、

今日我々はリンゴの木を植えねばならぬ」と云っている。このリンゴの木とは何か?

ここにベルグソンの「生命の飛躍」(エランヴィタール)やカントの「傾性(Neigung:ナイグング)

の克服」や


(原稿はここで終わっていますが、続原稿が発見されしだい追完します)


tb

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